自分の中の完全さ。
人は完全さを持ち、完全なリズムで、日常を過ごしている。
身体に戻ると、その完全さは直ぐにわかる。
意識していないところで、心臓も完璧にリズムを刻んでいてくれる。
その他、完全な動きで、各細胞が完全なリズムで調和をしていてくれる。
これを合わせ持つ、自分というのは、
完全性の中で生きていて、
それを合わせ持ち過ごしている。
この完全さが自分でもある。
しかし、日常で、自分は、取るに足らないところがあるとも、思考は思ってしまう。
まだまだ魂の成長?というものがあるとか思っていたり(これは、その人その人で自由だと思うのだか)
10年ほど前に、魂は成長しなくていいと、文字を見た時、
なんとも、力が抜ける感覚があった。
(!魂を.何と定義することにもよるが)
成長しないといけないと思うことは、まだ足りていないということになり、欠けた存在だと無意識に前提として持ってしまう。そして、邁進することになる。
自分には、完全なものと、
思考というもの、また、エゴというしかないのか、その部分があることを、知っている
ことは、大きな違いがある。
(エゴをローカルフィールドとも言える。)
日常は、そのエゴが、いろいろなパターンで出てきて、いろいろな思い、感情、を体験しているが、その中にいると、それが全てで、
まったく、同じことを繰り返し…自分はまだまだだな?
と思ってしまったり…してしまう。
でも、それは、それで、あり、
あるんだけれど、
それと同時に、完全性も自分の中にあり、そこがある事を、わかっていると、ふとそこで、休めたり、その気づきに寄り添うことができる。
意識だけて言うと、なかなか自分の本質や、気づいている完全な自分などは、自分には、見えないと、思考は思ってしまうが、
自分の中の完全性は身体に目を向けると、直ぐに感じられ、手の温かさ、心臓の動き、胸の呼吸、ありがとうといいたくなる。
出会う人全て、同じ生命からの鼓動で生きていて生かされている。
量子学でいうと、同じ素粒子で全てできて、いて、その振動がある。
自分は、個人でもあり、全体でもある。
沢山いろいろな情報があるが、
自分が一番すっと力が抜けて、柔らかく、胸の奥から開く感覚があるのが、本質からの
近道のサインかと思う。
どうしても、自分の中の変わらない思いや、生きずらさがある時は、自分のフィールドに働きかける、セッションなども、いいと思うし、
自分の中になかなか入って行けない、時は、
フラワーエッセンスのような、
本質へ帰る、エネルギーに働きかけるものも、良いと思う。
(先日の方が、そうだった、
頭も働かない…という時は、フィールドのエネルギーに働きかける、花のエッセンスから感情に働きかけるもの…
これも、調和の中からしか、生まれないもの)
自分の完全性に気づき、戻って行くものが、
気づきであったり、
セッションであったり、
エゴのエネルギーに働きかけるものであったりするが、
まずは、自分は、その、
完全性でもあり、エゴも合わせもつもの、
海と波(大海でもあり、大海から波はできている)
気づきの意識と個人(気づきの意識でもあり、個人も体験している)もの
であると、気づいて、その完全さを意識できているのは、
大きな違いがあると思う。
それを意識できていると、
目の前の人も、そこが、見えてくる。
人も動物も植物も全て同じものから生まれいる。
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