起きているけど、起きていない。
先日の日曜日、溝口あゆかさんの
zoomでの、オープン,アウェアネス,カフェが
あり、参加した。
その中に、
起きているけど、起きていない、
この自分の人生とは、起きているようで、実は起きていないのだと。
(これは、非二元、悟りの立ち位置の話しであり、一般的に自分の人生という捉え方では、ありません^_^)
それに関する質問があり、話があった。
今ここからすると、常に、一瞬、一瞬、起きては消えていく、
それを、記憶?頭?で繋いで、いるので、
自分の人生が起きているようだか、実態のないもの、儚いものは、実は起きていないのだと。
そうか〜と頭の理解では、実態がないものを、起きているとは、言わないんだ…とは、
頭だけであり、
記憶の連続だとはわかるが、起きていないとまでなると、起きてもいる?
実態がないという事を
自分なりに、感じる瞬間を楽しみにしておきたいと
思っていた。
が、
先程、Facebookをみていたら、
花火に喩えて、書いてあった文章を読み
!!!
えーそうだ、
(夜空に花火が上がり消えて行く映像が見え…)
花火のように、一瞬、一瞬、起きては消え、起きては消えているのが、
この人生とよんでいるもの。
その投げかけであった問いが、
"私たちが「人生」と呼んでいるものって、
ほんとうに「ある」んですかね?"
この問いで!!!
は〜!
ときた。
衝撃!!
うわぁー、その事か〜。
というか、ほんと、今ここの、認識している視点からすると、一瞬一瞬のものを、
そう思っていたんだ〜と。
なんだろ、
頭の理解と、
この気づきとでは、ぜんぜん違う、
やっぱり、気づきは、いつも触れる感じがするんだな〜。
そうかー。
そうなら、やはり起きていないというのが、
わかる。
頭の理解、話しを聞いて、そうなんだ、の理解の時は、起きていないという言葉が、
ピンとこないというか、
もっと、ぴったりとくる言葉があるのでは?と思っていたけど…
はーそうかー。
となると、
起きていないという言葉が…そうなんだと思う。
そして
先程の
私たちが「人生」と呼んでいるものって、
ほんとうに「ある」んですかね?
の問いの後にあった、言葉、
"その実在を、誰が証明できるのだろう?
1秒前の、光が、色が、音が、感触が、
もう、「記憶」の中にしかないとしたら……"
そうなんだよ。
いつも記憶の中だけ、
人生は、記憶の中にしかないね。
この連続性がないと、
個の自分としては、過ごしては行かないんだけど、
今ここの、ゼロ視点から、
経験をいつも、観ていて、認識している場から、見ると、
一瞬一瞬しか、起きていなくて、
消えていっているものは、実態がない…
あーー。
いつも、ここにしかいなかったんだと。
だから、coming home…って、これ?。
実態のないものを、あると、思っていたんだね〜。
幻ってこういうことか。
これからいうと、時間はないね。
ふと、、この場に戻ると、体は、息が深くなる。
あー。
OADのセラピーの視点は、この視点!
まさに、気づきがあると、ここにくつろげる。
理解と体験は違うなと。。
ぜんぜん違う。
というくらい違う。(私の場合,)
このゼロ視点、気づきの場の視点にいると、
悩みがあるクライエントさん、
感情にいっぱいのクライエントさんも、
大丈夫!(寛ぎの中で…)
といえるのが、わかる。
本当は、違うのが、ありありとわかるから!
(違うという言葉は、クライエントさんの悩みが違うのではなく、クライエントさんのリアルな悩みに共感もあるけれども、それも、一人一人のリアルストーリーであると見え、本当は、大丈夫だと、分かっていることです。)
本当のとこは違うんだよー!
って
ピタッりとぶれないから。
なんか、自分の寛ぎ方が違うなと。うーん寛ぎ方と、いう言葉がいいのか?だが。
理解でも、できるんだけど、
完全なる、立ち位置、見方、自分のいる場所が違うから、
同化が見えやすい。
と思う。
これからのセッションの時どうかを、自分でも体験してみよう。
でも、この視点からの、この人生と、
私は、個人であり、私の人生がある、いう視点では、
ぜんぜん!違う。
ありありとした今ここは、いつもあり、
その中で、起きては消え、起きて消えているのだか、その場だけがいつも変わらず、ある。
これは、気づきに触れるたびに、この場のありありさと、静かな…これを言葉にすると、沈黙。というのは、これは、この表現しかないかな。
気づきの意識に寛ぐ、寄り添うというのが、
また、少〜し、違うものとなったのかもしれない。
今日のブログは、だから、夢というのか〜、という、自分の記録みたいになったけど。
書いておこう。
庭に咲いた✨✨✨芍薬の花。
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