幸福は自分次第…②(ルパートスパイラさんのYouTubeより)
前回のブログで紹介した続きです。
前回のブログは長文になり…今回も抜粋して書いていますが……長いです💦
(全編はYouTubeよりご覧下さい〜)
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幸福は自分次第…②
あなたの幸福が誰にも、何にも依存しないことがわかった時、どんなに自由な生活が送れるようになるか、想像してみて下さい。
配偶者、恋人、パートナーがいる人はみんな、その人に向かって、次のように言うべきです。
"私はあなたを愛してる。でもあなたを必要とはしていません。"
"あなたが私に愛を供給してくれるのを、期待してはいません"
「あなたがやることで、私が幸福になったり、不幸になったりするようなものは、、何一つありません」
それはあなたが、パートナーに対してできる最も親切なことです。
それらとの関係こそが、あなたを幸せにすると信じながら、探さないようにくれぐれも気をつけて下さい。
パートナーであれ、ものや状況であれ、何であれ探す時には、それがあなたの「幸福から」なされるように、気をつけてください。
そして、それらを「幸福のための手段」にはしないように、気をつけてください。
その上、なんであれ、あなたが望むものをも望んでください。
何であれ、あなたが望むもの、ものや活動や人間関係はそのとき、それを通して、あなたが幸福を表現し、あなたの幸福を分かち合い、祝福するための媒体になります。
だからこれは、断念の道ではないのです。
私たちの欲望を切り詰めることとは、何の関係もありません。
何であれ、あなたが欲しいものを要求してください。
でも、その欲求が「幸せから」来ており、「幸せに向かおう」とはしないように、気をつけてください。
…
ただ抵抗するのをやめ、体験が私たちの期待にそう形で、現れるように要求するのをやめるだけで、私たちが手にすることができる自由を、あなたは感じることができますか?
天気がいい時だけ幸福になるのは、馬鹿馬鹿しいと思いませんか?
幸福とは、天気次第だと、要求しながら…
天気を変えますか、抵抗をかえますか?
あるいは他人の行動をかえますか?
その行動は、何十年にわたる、いくつもの人生にわたる、条件づけの所産かもしれません。それでもそれを変えようとしますか?
私たちの平安や幸福は、ものの状態に依存しないとわかる時、自由の大海が私たちの中に広がります。
全ての体験に親密に「触れて」いるのを.私たちは感じます。
私たちは、あらゆる体験に完全にオープンです。でもどんな体験からも危害を与えられたり、傷つけられたりすることはありません。
不快なものが有れば、私たちからの拒絶からきています。
拒絶であることを見抜いて下さい。
いずれにしろ、あなたは、私に危害をくわえることはできませんから。
あなた自身の存在の独立性を感じてください。
ものや状態や人から、あなたが幸福になるために投影したこと、要求したことを撤去してください。
あなた自身の幸福に、自分で責任をとってください。
私たちの独立性は、最初は曖昧に感じるかもしれません。
平安は私たちの存在に内在している幸福、あるいは、私たちの存在そのものである幸福へと成長します。
ジョゼフキャンベルが「あなたの至福に従いなさい」と言ったとき
この至福、この幸せをあなたのなかに発見し、それとともにいなさいということです。
これを訓練しないで下さい。
あなたの分離した心が、本当はノーと言いたいと思っている時に無理してイエスと言ったりしないで下さい。
このオープンさは、分離した心の背後にあるものから来ます。
全ての体験にオープンであるかとは、気づきの本性、あなた自身の本性なのです。
今のあなたが、体験していることが、起こっているという事実が既に、気づきとしてのあなたが、それにたいしてオープンであることを示しているのです。
それに抵抗するのは、遅すぎるのです。
オープンさは、ありのままであり、
「する」ことではありません。
…
私たちはパートナーや友達他、愛や理解から来ていない行いさえも、大目に見るべきだと言っているのではありません。
そうした振る舞いに対処するのは、正当なことです。
私が提案していることは、私たちの幸福を誰にも、何にも、捕虜として与えてはいけないということです。
内在する幸福は体験に先立つもので、結果ではないのです。
ウィリアムブレイクが
「喜びにしがみつこうとする者は、自由にいきる翼を台無しにする」と言っていたこと。
この自由、喜びは、どんな時も、どんな状態でも、入手可能なのです。
耐えがたかったり、我慢できなかったり、穏やかであれ、不快だと思われるもが、あれば、何であれ、真っ向から見つめてみて下さい。
そして、その不快さが対象そのものの中にはないことを見抜いてください。
抵抗こそが、苦しみです。
あなたがノーと言わなければいけない時、
そのノーが愛と正義と知性からきているように、注意してください。
悟りの探索をしている時は、私たちはある精神状態を探究しているのです。
その精神状態を得ても、遅かれ早かれそれは失われます。
悟りは、ごくシンプルな気づきの啓示のことであり、神秘的なものではないのです。
私たちの本性というシンプルなごく普通のことが、顕になるのです。
平安であり、無条件の喜び、何者にも依存しない喜びという私たち自身の本性が顕になるのです。
この独立した条件付けられることがないものこそが、私たちの本性なのです。
それは、探索の結果見出されることはあり得ません
なぜなら失われることがあり得ないもの。
覆い隠されることはあり得えます。
抵抗によって、覆い隠されます。
幸福とは、体験の中に時折現れる感情ではありません。
幸福こそ本性、私たちの存在の本性なのです。
存在を知ることは、幸福そのものです。
私たち存在のありのままを知ること、それがそれ自体を知ることこそが、幸福なのです。
この部屋の空間は何に対しても、抵抗していないし、何にしがみつこうとしていません。
この空間のようであってください。
何にも抵抗せず
何も探がさず
何も必要としない
何ものでもなく…
私たちが手放せるすべてを手放した時、
私たちが何にもまして、あこがれているものが自ずと輝きます。
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以上です。
青空はいつもあって、雲が覆いかぶさっているだけで、私たちの本性はいつもある青空。。
確かに、この部屋の空間は、どんなものも受け入れ、そのままでなんの抵抗もしていない。
穏やかで、そのままで、優しい。。
https://youtu.be/-RM9tJL0UHI
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